信田さよ子blog http://www.hcc-web.co.jp/blog/ カウンセラーとしての日々の仕事から解放され、信田さよ子が自由に深夜の想念を綴るMidnight Blog ja 2010-07-27T23:17:39+09:00 激暑だってさ! http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000965.html 熱中症による高齢者の死亡数が昨年の二倍を記録しているとか・・・ 自分では大丈夫と思っていても、高齢になると体温調節機能が低下して、気が付くと手遅れになってしまうらしい。高齢者のひとりとしては気を付けなければと思っている。仕事もそうだ。あまり疲れなくなった、と感じるのは危険なのかもしれない。 明日から週末まではあらゆる仕事をストップする予定(理由はリコンストラクションということで)。 そういいながらも、たぶん9月には本が二冊出版される予定。ひょっとすると三冊になるかもしれない。 2007年までは、せいぜい毎年一冊のペースで出版していたが、2008年から年に二冊~三冊の本を出版するようになった。 そのぶんハードワークになったということだ。 日常のカウンセラーとしての仕事が減ったわけではなく、むしろ原宿カウンセリングセンターを訪れるクライエントのひとたちの問題は年々困難さを増している。ということは、所長である私の責任は重くなっているということだ。 今日は静岡市のこころの健康センター主催の講演に日帰りで出かけてきた。80名近い方々が聞きにきてくださった。 平日の、それも猛暑の中をありがとうございました。 一般教養というより、現実に問題を抱えたかたたちが聞きにいらっしゃることが多いのだが、それは話している感触でリアルにわかるものだ。 静岡では9月25日にも講演の予定がある。なんとか夏を乗り切らなくては、と思う。 また直近の講演では、8月10日、火曜日の夜、朝日カルチャーセンターの横浜教室で「共依存とはなにか?」の講演を予定している。 DV被害と共依存の関係はもちろん、親からの愛情、ケアや世話をもう一度問い直すことになるだろう。ぜひ、おおぜいの方に来ていただきたいと思っている。 私の講演会の情報を、このブログで知って聞きにいらっしゃる方が多いことはうれしい。 あえて本ブログを訪れた人数をカウントしないようにしているのだが、たぶん相当数にのぼるはずだ。沖縄から北海道まで、講演会に来ていただいた方たちから「ブログ、楽しみにしてます」と聞かされるのだ。 ツィッターは、とにかく時間がないのでやらないと決めている。宣伝効果があると聞いたが、それと時間をはかりにかけて、やっぱりやらないことにした。 個人的にのぞくのを楽しみにしていたブログが、ツィッターのせいで更新されないという事態が広がっている。それも残念だ。 早くブームが去ってくれるように祈っている。 猛暑を通り越して激暑と表現するらしい。それほどまでに今年の夏は暑い。 さあ、明日からしばしの沈没生活に入ろう。... 講演 sayoko 2010-07-27T23:17:39+09:00 おひさしぶりです http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000964.html 神戸で開催された日本アルコール関連問題学会に参加した。専門講座の講師、分科会のシンポジストと二つの役割をこなした。 まあ、内容は省略しよう。このブログであまり難しいことを書くエネルギーは残っていないので。それほどまでに暑い。 梅雨明けと同時に空は炎天というにはあまりに青く澄み、気温はぐんぐん上昇している。 「父親再生」(NTT出版)は、クロワッサン、日刊ゲンダイなどでとりあげていただいたし、こんどは「週刊ポスト」にも書評が出る予定。男性誌にも女性誌にも注目されてうれしいことである。 神戸の学会でも完売したし・・。 自分のことはさておき、同世代の男性を見て「ああ、老けたなぁ」と感慨にふけることが多い。 その引き金になる現象はいくつかある。 まず、ウェストポーチだ。若いころはけっこうおしゃれだった人が、ウェストポーチで現れた時のショック。 次は、食後の爪楊枝だ。 目の前で、爪楊枝を堂々と使用して「シーハー」とされたときには、ほんとにがっくりする。 着衣もけっこう重要で、還暦過ぎてユニクロが似合う男性は稀有な存在だと自覚すべし。衰えた体躯を包み隠すには、それ相応の工夫とお金が重要だ。目立たないけど上質なものを着てもらいたい。 最後に、お金を払うとき。これも大切なシーンだ。 いちおう、計算書をさっと取り、トイレに行くふりをして支払っておく。これがその場をセッティングした者のエチケットだろう。 それなのに、「割り勘でいい?」と最初から言うとしたら、これも興ざめである。支払ってもらいたいなどといういやしい根性で言っているのではない。学生時代の、おたがいがお金のない状況での飲食とは違うのだ。それなりの社会的ポジションを得た後であれば、もっとスマートにやってもらいたいものだ。 最後に、とにかく「自分のことしか話さない」のは最悪だ。自分の自慢、自分の悩み、自説を滔々と述べることで、おそらく自分は相手(つまり私のこと)と十分にコミュニケーションをとっているつもりになっているらしい。 この錯覚がおそろしい。 還暦を過ぎて、一定の地位を得た男性が坂を転がるように老けていくのは、白髪の増大、禿頭化や、おなかが出ることではなく、上記のような、「他者の目に自分がどのように映っているのか」という配慮を完全にしなくなることで起きるのではないか。 おそらくその芽は若いころから胚胎していたのだろうが、自信のなさと自意識によって抑制されていたのだ。社会的地位と経済力を得たとたんにそれがなくなるとしたら、彼らにとってもっとも大切なことは地位と金だということになる。それを得さえすれば、他者の視線を気にせずとも生きられるとでも? 嗚呼、なんということか・・・。 これはおそらく家族においても同じだろう。「父親再生」にはそのあたりのことを書いた。妻の目に、息子の目に自分がどう映っているのかに対する無関心が、あまりに顕著なのである。 私も気をつけなくっちゃ、と思う。 それにしても、オヤジはもうたくさんだね!... 著書 sayoko 2010-07-19T19:13:02+09:00 煮詰まってきた~ http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000963.html いろいろ引き受けていたことが、予定どおりこなせず、体調も悪く破局に向かっているような予感がする。 マンションを工期内に完成できず、違約金を払わされる予感と似ているかも。 学会のシンポを引き受けると、必ずその内容を論文化しなければならない。 講演を引き受けると抄録、要旨を書かねばならず、時には講演のテープ起こしの直しもしなければならない。話しっぱなしで終わることはまずない。 というわけで、ただいまおしりに火がついているのが二つ。いや三つかな。 それと8月締切の原稿(専門誌)が2本。 なんだか体調も不安だし、どうしよう・・といっても誰も助けてはくれない。引き受けた私の責任なのだから。 新刊本「父親再生」の評判は上々だ。特に同世代からは支持が厚い。 また、尊敬する某さんから「名著ですね」と褒められて、とっても気をよくしている。 ぜひ団塊世代の男性に読んでもらいたい。 と思ったら、けっこう女性読者にも好評で、一気に読みましたとの反応も多い。 7月8日の「父親再生」記念講演会はまだ参加可能なので、ぜひ来てもらいたい。 「立派なあるべき父」ではなく妻や子から「愛される父」こそ望ましい、と主張したい。 サインもしますよ~ 横浜の弁護士殺害事件は、第一報を聞いたとき「これはDV加害者が被害者の弁護士を逆恨みした犯行だ」との直観が働いた。自主した内容は、やっぱりそのとおりだった。 なんとかしないと、被害者はもちろん、弁護士も危ない。 加害者対応、やってくれ!... 講演 sayoko 2010-07-07T02:14:21+09:00 お知らせです http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000962.html ぜえぜえ・・ホテルに缶詰めの初体験をした。 なるほど、かなり能率は上がることがよくわかった。途中で「すべらない話」をテレビで見て、はんにゃ金田の初々しいトークを応援。 本日の夕方まで原稿を書いて、マッサージをしてもらいそれで締めとなる。やっぱり疲れるなあ・・ほんとに。 帰りの井之頭線の中から窓の外を見て驚いた。これって、箱根登山鉄道に乗って見物するのと同じ光景じゃないの?って。 神泉駅のトンネルを出てから吉祥寺駅まで、ほとんど切れ間なく線路脇の道にず~っと紫陽花が植わっているのだ。青や白、紫の濃いのまで、がく紫陽花も植わっている。 急行でなく、各停に乗ったほうがいい。ゆったり見れるから。遠くまで紫陽花見物に行かなくても、井之頭線に乗ったまま満開の紫陽花を見ることができるなんて、素敵だ。安上がりだし。 お知らせです。 このたび発売になった「父親再生」の発刊記念講演会が、朝日カルチャーセンター新宿校でひらかれます。終了後、サイン会も行います。 父親について、これまでにない視点から話してみたいと思っています。 多くの方々のご参加をお待ちしております。... 講演 sayoko 2010-06-27T21:58:03+09:00 いよいよ新刊書発売!「父親再生」 http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000961.html お待たせしました! 新刊書の「父親再生」(NTT出版)が発売となります。 写真を見ていただければわかるように、なかなかスマートな表紙で気に入っている。 毎度思うのだが、ほんとに深夜身を削って書いているので、本が完成した瞬間は涙が出るほどうれしい。 でも、書き終わった時点で、私の中では何かが終わっている。おそらく映画もそうだろう。公開の約半年前には撮影は終了しているのだから。編集作業をする監督は別として、演じた俳優は終わっているのだと思う。 ただ、反響や売れ行きは当然気になるし、本はそもそも多くの人に読んでもらうために書いたのだから、発売してからが本番であることも確かなのだが・・・余韻に浸ることができない不幸を感じる。 いつも強迫的なまでに「とどまるべからず」の精神にからめとられているので、新しいテーマを追い求め続けている。じっくり腰を据えることができない。 10年一日のごとく久々に会ったひとが変わらないことを言ったりやったりしているのを見ると、わが身を振り返ってしまう。 どうしてこのように更新し続けるのだろうと。 「加害者は変われるか」から続く男性路線は、いちおう今回の「父親再生」で区切りとなるか、それともまた新しい男性の謎に迫る本になって結実するのか・・ そのあたりはお楽しみに~ まあ、とにかく図書館で借りずに、アマゾンか書店でお買い求めください。 ときどき、「新刊が出るの?じゃあ図書館でリクエストしとこ~、最初に借りるのって気持ちがいいのよねえ」と言う知人がいるが、心底軽蔑するのである。 愛読していた「スクリプタ」(紀伊國屋書店)連載中の「日本のミソジニー」(上野千鶴子)が最終回だった。 う~ん、なんだかすごい終わり方だ。とにかく性欲もエロスも、そして生権力も、それがどのようにして歴史的に(つまり自然ではないこと)つくられてきたかを、ちゃんと知っとけよ、と啖呵を切って終わっているのである。 こわいよ~。でもいいも~ん、私、脆弱なんだし。 と開き直って一冊の本にまとまったら再読することにしよう。... sayoko 2010-06-24T00:20:42+09:00 いくつか http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000960.html 原稿とりたての編集者のことを某氏にならって「鬼編」と呼んでいる。このところ身辺にオニヘンが出没しているような・・・ 相変わらず仕事のペースを落とすことはできず、どんどん講演依頼も増えるいっぽうだし。 そんな生活にあって、文化の香りだけは絶やすことができないのである。 エマーソン弦楽四重奏団の演奏会に行った。曲目がなかなかだった。ドボルザークはもちろんのこと、初めて聞いてすっかりはまってしまった曲がある。 ヤナーチェクの「クロイツェルソナタ」だ。 村上春樹の「1Q84」以来、すっかりヤナーチェクの名前はポピュラーになってしまったが、それにしても最初の旋律から衝撃的である。 「文学界」(文藝春秋)では1Q84特集を組んでいる。中でも内田樹・沼野・都甲三氏による鼎談が秀逸であった。鼎談というのは、必ずひとりががっくりとレベルを落とすことになる不思議な構造をもっている。三者が等分に輝いている鼎談なんて読んだことがない。 誰がそれにあたるかは読んでみてのお楽しみ。 「ホームレスと自立/排除ー路上に<幸福を夢見る権利>はあるか」笹沼弘志(大月書店、2008)は参考になった。あまりに使い古された「自立」概念をていねいに解題してくれる。カウンセリングをしていると、あまりに多くの親たちが当たり前の言葉として「自立してほしい」と子どもに希望している。 無批判に用いられるようになった言葉は危うい、というのが私の実感である。生理的に拒否感をおぼえるほどである。たとえば「DV被害者の自立」とか・・・ そういうセンスがどうも受け入れられない。 週刊朝日の内館牧子のエッセイ「暖簾にひじ鉄」が超面白かった。言い間違え(いいまつがえ)の列挙である。 常滑焼をなめとこ焼、ネットで本を買うときにアマゾンをアラスカといった・・・「妻をめとらば」を「妻を寝とらば」、「目に青葉、山ほととぎす、花ガツオ」だって。 まだまだある、ボイコットをボッコイト、掃きだめに鶴を肥えだめに鶴。 くだらないことを書いてしまった。読みながらほんとに笑ってしまった私はヘンなのだろうか。... 読書 sayoko 2010-06-12T03:14:22+09:00 仕事量のランダム化 http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000959.html 久々に土日と空いたので、ゆっくりDVDを見た、なんて嘘だよ~ん。 この3日間で書いた原稿が約40枚となった。報告書の原稿、そして連載原稿が2本である。 そのうちのひとつは書き上げたのが朝の6時。要はオールってわけですね。 窓から外を見ると、4時過ぎにはもう日が昇っている。朝焼けが美しい。 前日は仕事から10時に帰宅、それから夕食、夜中の12時から書き始めて徹夜だなんて、体にいいわけはない。 そのうち1社の原稿は佳境に入っている。あと2回で連載も終了。ああ、よく頑張ったと思う。 そして今月末には新刊本が発売となる。 お楽しみに!... 日常雑感 sayoko 2010-06-09T01:11:36+09:00 薔薇の花が冷気の中でふるえている。 http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000958.html 久々に原稿をいくつか仕上げようとしたのだが、どうにも寒くてたまらない。 4月の気温とのことだが、衣替えのつもりで仕舞い込んだセーターやフリースを着込んでもまだ寒い。 どうも風邪をひいたようだ。 体調は悪いし、たまった原稿の請求はバンバン届くし、ほんとに泣きたくなる。暖かくして、DVDでもぼんやり見て、好きな本でも読んでいられたら・・・。 私の願いなんて、こんなにささやかなものなのだ。別にアルゼンチンに旅行に行きたいわけでもなく、プラハで人形劇を見たいわけでもない。 ひたすらじ~っとして、休んでいたい。 かつて毛糸の編み物に凝った時期がある。セーターを何枚も編み、長いコートまでつくった。そのころはなんで時間があったのだろう。 愚痴ってもしかたがない。いつかまた、老眼鏡をかけて毛糸を編むときが来ると信じて、今日一日原稿を書くことにしよう。... 日常雑感 sayoko 2010-05-30T23:26:18+09:00 対等な関係? http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000957.html めでたくひとつ年をとった。 こうなったら本当の意味でおめでたい。また1年生きたね、という意味で。 ところで昨日来、政治は激動の様相を呈している。 鳩山首相のお詫びの言葉を聞いていて、謙譲とは何かと思った。このあたりは私にも心当たりがあるが、とにかく日本の社会は自分のポジションを下に置くポーズさえとっていれば何とかわたっていけるのだ。このあたりが一番よくわかっているのが、おばさんたちであろう。 何もできません、知りません、駄目なんです、とグダグダ言っていればいちおう対人関係はまずくはならない。 その裏がわには、「あんた、世の中ってそんなもんでしょ」という例の無根拠な尊大さが潜んでいるのだけれど。 日本語の語法には細かく上下関係が埋め込まれているので、そこから自由になることは困難である。むしろそれを巧みに使い分けて「空気」を読んで渡っていくことのほうが現実的なのだ。 さて、あのへりくだった鳩山首相の語法を聞いてどう思うのか。 どうやったってあの学歴、血統、資金力にはかなわないという絶対的優位性があるからこそ、あの謙譲は生まれる。むしろ「いばらない謙虚な姿勢」と評価すらされるだろう。 もちろん攻撃を避ける効果もある。 たぶん計算された語り口なのだろうが、対等な関係性とはいったいなんだろうと思わされた。飛ぶようだが、DVの加害者プログラムは妻との対等な関係を構築することをひとつの柱としている。 どうもこの「対等」がわからないのだ。 へりくだればいいのか、それともお友達みたいにつきあえばいいのか、言いたいことをはっきり言えばいいのか。 同じ平面に立つことを対等というなら、それはまやかしであろう。 たとえば子どもと対等な目線で話そうと思ってます、と述べる親は、しばしば「対等」に子どもの行為にキレる。 埋めようのない差異、否定しようのない不平等を認めたうえで成立する対等性はあるのだろうか。 重要なことは相互性だろう。片方が対等と思っても、相手がそう思わないときはどうするのか。夫が妻と対等に話そうと思っても、妻は圧力と脅威を感じるときはどうなるのか。 そもそも「対等」という言葉がまやかしなのではないだろうか。 ある種の心掛けを指す言葉であり、関係の劣位にあるものが優位な立場の人間に対抗する際の景気づけにすぎないなかもしれない。 もしくは優位に立つひとの罪障感を軽減するために、「へりくだること」を正当化する言葉なのかもしれない。... sayoko 2010-05-29T16:11:29+09:00 「僕なんか彼女を殴ったりできないよ」 http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000956.html 先日TBSラジオ「Dig」に出演したことはすでに書いた。 そのときの反応(これはいろいろな手段でつかんでいる)についての違和感を述べよう。 冒頭で、DVは男性から女性への暴力って言っていいんじゃないか、とガツンとかました発言をした。もちろん、女性が男性を殴る例もあるし、それで男性が困ってカウンセリングの訪れることもある。 しかし、最近頻発しているDV殺人、保護命令の状況をみても、やるがわ(加害者って言おう)は圧倒的に男性だ。まして中年以降、生活をほとんど夫の経済力に依存せざるを得なくなってからのDV問題は、男性から女性に対してが圧倒的に多い。 デートDVを毛嫌いしてしまう理由は、結婚、出産を経て、徐々に男女の役割分担が明確になってきてから、つまり女性が弱者化することでDVが生まれるということを言いたいからだ。 家族という制度に骨がらみになってから、その男女がどうなるかを考えたいのだ。 言いたいことはこのことではない。 私の発言を聞いた若い男性たちの反応についてだ。「極端だ」「公正さに欠ける」・・・さらには「僕なんか、やさしいから彼女を殴ったりなんかできない」というものまで。 批判には慣れているし、それもひとつの反応なので歓迎すべきだと考えている。しかしそこに流れるものは、DVをふるう男性を「極端」だとして排除したがる同性の彼らのメンタリティだ。 これは性犯罪者に対してもいえる。 「あんな変態と僕たちを同じにしないでくれ」「何かっていうと、男だけが悪者にされるのは納得できない」と。 そこからみえてくるものは、批判されることで傷ついてしまう「どうしようもない脆弱さ」である。DVで妻を殺す多くの男性と、少女を弄ぶ性犯罪者と同じ性である自分を引き受けられない姿である。 私は決して全男性を責めてなどいない。極論すればDV男性すら責めてはいない。責めることの無意味さと不毛な対立はよく知っているからだ。 しかし、事実として述べなければならないことはある。やさしいあなたたちも、結婚して親になってから変貌する可能性があることを知っておく必要があるだろう。 DV加害者も、性犯罪者も、同じ男性として排除しないでほしい。 先日のエントリーに書いたことにもつながるが、一部特殊にみえる動きをどのように普遍化していくか。これは政治闘争についての命題なのだが、負の部分についても同じことがいえるのではないだろうか。 多くの母親たちが、虐待で子どもを殺した母を「狂ってるわ」「あんなの母親じゃない」と排除すれば、そこですべては止まる。同じ女性として、同じ母として、なぜ彼女が子どもを殺したのかを考えるところから、虐待への考察は生まれるだろう。 同じことを彼ら「やさしい」男性についても言いたい。 「性犯罪やDVの話を聞くと、被害者のことを思ってほんとに僕はつらいんです。代わりに謝ってしまおうかって思うんですよ」 そう語る男性と、「極端な男性と僕を同一視しないでほしい」と抗議する男性は紙一重だ。 どちらも、暴力行動を嫌悪し絶対そんなことをしないぞという覚悟に満ちている。しかし前者は同じ男性のカテゴリー内部にそれを引き受けているが、後者はそれを排除している。 このような排除する姿勢が、DVは男性の暴力だという意見に対する反発につながる。どこか、フェミニズムへの反発と共通してはいないだろうか。 本来の対抗すべき相手とは向き合わず(なぜなら排除してしまっているから)、被害者として加害者を批判する言説への反発にエネルギーを注ぐ。 この奇妙で、お角違いの敵意がネットやさまざまな場所で噴出している。 その根底にあるのは、自分もその一員である男性カテゴリーの中に、見たくない現実、認めがたい男性を引き受けられないという脆弱さではないか、と思う。... DV(ドメスティック・バイオレンス) sayoko 2010-05-20T01:20:41+09:00 もういちど繰り返す http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000955.html 前回のエントリーはけっこう反応があった。 沖縄在住のひとからもメールが来たり、参考になる資料を送ってくれたひともいた。 週刊文春では内田樹が「要は日本がアメリカに侮られているのだ。そのことを正視するところからしか何も生まれない。」といったことを述べていた。 大澤真幸の無料PDF版「緊急発言 普天間基地圏外移設案」は、普天間基地の根幹、米軍基地がなぜ日本に必要なのか、なぜそれが沖縄なのか、について論理的かつ具体的に提案されたもので、非常に読みでがあった。 中でも、「戦闘的な少数派の普遍主義的な肯定という形式」が印象に残った。沖縄の普天間の基地問題を日本全体の困難として普遍化しなければならないという主張である。 かつて、60年代70年代の政治闘争は少なくともそのような戦いかたをされていたと思う。沖縄の問題は、東京に住む私の問題だ、という立て方が基本になっていた。 相も変わらず、テレビや新聞では鳩山叩きに終始している。不毛である。 なぜ、アメリカとの関係を問わないのだろうか。沖縄のひとたちが歓迎していない基地を今日まで放置してきた日本全体の責任として、それに取り組もうとしている鳩山政権を後押ししこそすれ、なぜ叩かなければならないのか。 比ゆとして不適切かもしれないが、その違和感はDV問題と似通っている。 DV(ドメスティック・バイオレンス)という言葉が生まれる前も、父が母を殴ってどなり散らす家庭はごまんとあっただろう。 母が、息子に「あんたが高校に入ったら別れるよ」と言い聞かせ、息子もそれを信じて母とともに着いていこうと考える。 ところが、いざとなると母親はいっこうに別れる気配もない。一生懸命信じてきたのに、どうして母までも自分を裏切るのだ、と息子は激しく母に憤る。 この母と息子との関係に、普天間問題は似てはいないだろうか。 肝心の父親への抗議はどこへやら、母親の約束不履行ばかりを責める息子は、結果的に父の暴力を不問に付し、問題を母の約束不履行へと方向転換させることになるのだ。鳩山叩きは、基本にある日米軍事同盟を不問に付すことで、このようなDV家族で起こりがちな不毛な母子の対立と似通っている。 引き受け先と移設費用を全部日本がj負担しなければならないのだろうか。このことから考えてみたい。徳之島をはじめとして蛇蝎のごとく嫌われているアメリカ海兵隊の基地であれば、国民全体が「ノー」と言えばいいではないか。日本国民の総意として、海兵隊の基地は要りません、とアメリカに主張したらアメリカも無視できないだろう。 日本の中の、それもコップの中の嵐のような政治的課題である限り、アメリカはなんの痛痒も感じないはずだ。... 日常雑感 sayoko 2010-05-17T01:29:28+09:00 どうも釈然としないのだけど http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000954.html 昨日5月4日、鳩山首相の沖縄訪問のニュースが一斉に報道された。 とにかく多くのTVや新聞は、鳩山首相の決断力の無さと言葉のあいまいさ、発言を実行しない不誠実さを叩けばいいとばかりの論調だ。 これがもし、時間をまきもどして1960年代から70年代だったらどうだろう。 きっと「米軍基地は日本から出ていけ」「日米安保条約の不平等性をなくせ」「沖縄への過剰負担を是正しろ」といったデモが起きるだろう。 鳩山首相を叩いて、民主党政権批判をしてどうなるというのだろう。だって、みんなが選んだことによって日本で起きた政権交代の象徴として起きているのが普天間基地問題なのだ。 徳之島の人が反対するのを当然と思っているひとたちは、当然自分の住んでいる町に米軍基地がやってくることに反対するだろう。 それがそのまま沖縄のひとたちの苦しみを継続させることがわかっていても、どの自治体も手を上げないに違いない。 そんなずるさを秘めた基地問題であることを、皆が知っていてそれを言わない。 アメリカは徳之島案も、海上に滑走路建設案も蹴ったという。 どうして、そのことに抗議しないのだろう。 日本が今のままでいるためにはアメリカの基地が必要であることを誰も疑わないのだろう。そのうえで、まるでゲームのように普天間をどこか隙間を見つけて移設するという話にすりかわっている。 そうなれば、単に押し付け合いになり、結果として「今のままで、沖縄のひとにはもうしばらく我慢してもらいましょう」という落とし所に落ち着く可能性がある。 なぜ、日本の国土にこれほどまでの米軍基地が必要なのか、その大部分が沖縄という東アジアをにらんだ位置にある小さな島に集中しなければならなかったのか。 60年安保、その後の密約、70年安保改定、この流れを理解したうえで、時の政権が初めて普天間基地移設という地雷を踏んだことを私はそれでも評価したい。 オバマ大統領もそうだが、理想を掲げて当選した後は、必ずバックラッシュに見舞われるものだ。その時の本人の姿勢も重要だが、何よりマスコミの姿勢が重要ではないだろうか。 らくだが針の穴を通るようなことだろうが、民主党政権が公約に掲げたことを実施できるように、アメリカに抗議するくらいの気概をもったらどうなのだろう。 外国人参政権に反対している人たちは、どうして日本の国に大きな顔をして居座っているアメリカという国に対して「ナショナリズム」を主張しないのだろうか。 中国、北朝鮮、韓国に対してナショナリズムを掲げるのではなく、対米の自己主張をためらわないでほしい。 もちろん、複雑な国際情勢やダイナミズムから対米協調路線が必要なことはわかる。とすれば、鳩山叩きだけでは解決しないことも明らかではないだろうか。... 日常雑感 sayoko 2010-05-05T17:45:40+09:00 できれば聞いてください http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000953.html 今夜の夜10:30から1時間、TBSラジオの「Dig(ディグ)」という新しくスタートした番組に生出演します。 1時間のあいだ、DVについてさまざまな角度から質問に答えるという番組だそう。 テレビと違ってじっくり話せるので、お引き受けした。 お時間のある方、聞いてください。... DV(ドメスティック・バイオレンス) sayoko 2010-04-29T03:44:54+09:00 ゆるゆると行きたいものだけど http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000952.html ひさしぶりのエントリー。 楽しみにのぞいて下さっているかたには申し訳ありません。 いろいろなことがあって、書く暇もない状態が続いた。もうすぐ●●歳になるという現実を再認識している。 体力を過信し、飛ばし過ぎた日々のつけかもしれない。まあ、そうはいっていられないほど、各方面とのお約束が私を二重三重に拘束しているのも事実なのだが。 41年ぶりに、桜の落花後に雪が降った。アイスランドでは氷河の下から火山が噴火した。中国でもチベット自治区で大きな地震が起きた。 こんな小さな国に住みながら、どうしようもなくマスコミ報道に踊らされながら生きていることを痛感させられている。 感情とは個人のスキーマ(認知の習慣)によって変化する、というのが認知行動療法の基本なのだが、自分へのエクスキューズを許すことができれば、ゆるゆると生きることも可能だ、と思う。 なんとかこの寒暖の差の激しい日々を乗り切ろう、と自分に言い聞かせている。... 日常雑感 sayoko 2010-04-18T02:22:13+09:00 家族の絆が希薄になった? http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000951.html なんでも、NHKで特集した「無縁社会」が話題になっているそう。 残念ながら私は見ていないのであるが、あまりの反響の大きさから、今夜のNHKではその反響の内容を特集していた。さすが受信料をとっているだけあって、けっこう丁寧な取材だったので興味をひかれてついつい見てしまった(反省)。 その際に何度となくキーワードとして登場する言葉が「家族の絆が希薄になった」「人間関係が希薄になった」である。 これは政府関連の報告書の枕ことばにもなっている。このフレーズさえ使えばすべて説明可能だ、とばかりに。それじゃ、増大する虐待死やDVの相談件数の増加をどう説明するのだろう。 希薄になった家族関係で暴力が発生するとでも? 番組中に登場するひとたちが口にしているのが「子どもに迷惑をかけたくない」「親に心配をさせたくない」である。 家族の中だけでもせめて心地よく過ごしたいと思っているひとたちは、家族成員間においても「他者性」を意識せざるを得ないのだ。学校ではいじめに遭い、両親間の空気を読みながら生きてきたひとたちは、おそらく両極に分かれるだろう。家族だけが「あるがままの自分」でいられるべきであると考えるか、それとも家族への幻想を捨て去りきわめてクールに共存だけを願うか、のふたつだ。 たったひとりにとっての「自分の思いどおりになる世界」化した家族が、他の成員にとっては忍耐と服従の世界でしかない。こう実感しているひとは少なくないだろう。 たったひとり=夫(父)という公式は、残念ながら多数の家族にあてはまる。芸能人の子ども時代、作家の家族などを紐解けば、自分のことしか目に入っていないような父親像は掃いて捨てるほどだ。 そんな地獄にあえぎながら生きずとも、それぞれが気を使い、傷つけないように配慮して共に暮らすことが家族の望ましい姿だと考えるひとたちが多数存在するようになったとして、何の不思議もないだろう。むしろ、基本的人権の思想が、家族成員に平等に浸透したと評価すべきである。 気をつかうからこそ、子どもにめんどうを見てもらいたくない。親が苦しむから、現状を伝えられない、という気遣い=他者性が、はたして家族の絆の希薄化によるものだろうか。 まず、希薄化という定義を撤去することがなにより重要だ。むしろ進化形と考えるべきではないだろうか。家族という特権的な集団においては、暴力を受けても許さねばならず、どれほど侵入されてもそれを愛と読み換えなければならない、という法則が不合理だと判断するひとたちが多数生まれていることの証左なのだ。それは家族を維持したいがために生まれ、家族を生きていくために必要な判断なのだ。 そのような他者性に満ちた関係性が、不況の影響を受けたひとたちの過剰な自己責任感につながり、結果として個人化を促進していると考えられないだろうか。しかし、その裏面では、家族は崩壊を免れ、家族内殺人の発生が未然に防止されているというメリットも生まれているはずだ。そのことは表面には現れないだろうが・・・。 このような他者に侵入されたくない、したくない、という恐れにも似た自制が、ツイッターの隆盛を生んでいるのではないかと思っている。一説によると、すでに英語のツイッターは国境を越えて地球儀上で膨大なつぶやきが生まれているという。 問題は、個人化したとき、弱者は孤立化することでさらなる弱者へと転落するリスクがあるということだ。彼らにソーシャルな保護を二重・三重に受けるための権利意識をどのようにもってもらうか。そのための情報を徹底する必要があるだろう。若いひとたちに会うと、驚くほど情報量の少なさを感じることがある(単に知識・教養不足化かもしれないが)。 また、家族集団に代替可能な集団が生まれる必要がある。団塊世代が新たな老後の姿を築きつつあるという実感を持っている。定年退職後、どん欲なまでの地域や趣味のネットワーク作りに励む同世代の男女には驚かされている。おそらく、我々特有のたくましさ(鈍感さ?)と青春期の経験によるものだろうが。 アディクションの自助グループは一種のオルタナティブなコミュニティだが、やはりどうしても心理学化を免れないだろう。地域の公民館などの活動もいいが、多くの自治体ではお年寄りのカラオケ教室になっているようだ。 私の期待は宗教(広義の)にある。誤解を恐れずにそう書いたが、詳細はまた拙著においていずれ述べたいと思っている。 まとまりがなくなったが、希薄化という表現をいい加減にやめてほしいという願いから書いた。... 映画・テレビ sayoko 2010-04-04T02:46:14+09:00