2010年05月20日

「僕なんか彼女を殴ったりできないよ」

先日TBSラジオ「Dig」に出演したことはすでに書いた。
そのときの反応(これはいろいろな手段でつかんでいる)についての違和感を述べよう。
冒頭で、DVは男性から女性への暴力って言っていいんじゃないか、とガツンとかました発言をした。もちろん、女性が男性を殴る例もあるし、それで男性が困ってカウンセリングの訪れることもある。
しかし、最近頻発しているDV殺人、保護命令の状況をみても、やるがわ(加害者って言おう)は圧倒的に男性だ。まして中年以降、生活をほとんど夫の経済力に依存せざるを得なくなってからのDV問題は、男性から女性に対してが圧倒的に多い。
デートDVを毛嫌いしてしまう理由は、結婚、出産を経て、徐々に男女の役割分担が明確になってきてから、つまり女性が弱者化することでDVが生まれるということを言いたいからだ。
家族という制度に骨がらみになってから、その男女がどうなるかを考えたいのだ。

言いたいことはこのことではない。
私の発言を聞いた若い男性たちの反応についてだ。「極端だ」「公正さに欠ける」・・・さらには「僕なんか、やさしいから彼女を殴ったりなんかできない」というものまで。
批判には慣れているし、それもひとつの反応なので歓迎すべきだと考えている。しかしそこに流れるものは、DVをふるう男性を「極端」だとして排除したがる同性の彼らのメンタリティだ。
これは性犯罪者に対してもいえる。
「あんな変態と僕たちを同じにしないでくれ」「何かっていうと、男だけが悪者にされるのは納得できない」と。
そこからみえてくるものは、批判されることで傷ついてしまう「どうしようもない脆弱さ」である。DVで妻を殺す多くの男性と、少女を弄ぶ性犯罪者と同じ性である自分を引き受けられない姿である。

私は決して全男性を責めてなどいない。極論すればDV男性すら責めてはいない。責めることの無意味さと不毛な対立はよく知っているからだ。
しかし、事実として述べなければならないことはある。やさしいあなたたちも、結婚して親になってから変貌する可能性があることを知っておく必要があるだろう。
DV加害者も、性犯罪者も、同じ男性として排除しないでほしい。
先日のエントリーに書いたことにもつながるが、一部特殊にみえる動きをどのように普遍化していくか。これは政治闘争についての命題なのだが、負の部分についても同じことがいえるのではないだろうか。

多くの母親たちが、虐待で子どもを殺した母を「狂ってるわ」「あんなの母親じゃない」と排除すれば、そこですべては止まる。同じ女性として、同じ母として、なぜ彼女が子どもを殺したのかを考えるところから、虐待への考察は生まれるだろう。

同じことを彼ら「やさしい」男性についても言いたい。
「性犯罪やDVの話を聞くと、被害者のことを思ってほんとに僕はつらいんです。代わりに謝ってしまおうかって思うんですよ」
そう語る男性と、「極端な男性と僕を同一視しないでほしい」と抗議する男性は紙一重だ。
どちらも、暴力行動を嫌悪し絶対そんなことをしないぞという覚悟に満ちている。しかし前者は同じ男性のカテゴリー内部にそれを引き受けているが、後者はそれを排除している。
このような排除する姿勢が、DVは男性の暴力だという意見に対する反発につながる。どこか、フェミニズムへの反発と共通してはいないだろうか。
本来の対抗すべき相手とは向き合わず(なぜなら排除してしまっているから)、被害者として加害者を批判する言説への反発にエネルギーを注ぐ。
この奇妙で、お角違いの敵意がネットやさまざまな場所で噴出している。
その根底にあるのは、自分もその一員である男性カテゴリーの中に、見たくない現実、認めがたい男性を引き受けられないという脆弱さではないか、と思う。