2009年06月21日
職人という言葉のいかがわしさ
前回のブログで象を像と書き間違えてしまった。気づいてあわてて修正したが、汗顔の至りである。
昨晩のNHKテレビ「トップランナー」に映画監督の西川美和が出演していた。若干34歳のキュートな女性だが、「ゆれる」で一躍日本中に名前を知らしめた俊英である。
インタビューを受けて(けっこうベタな質問ばかりで聞いててつらかった)、「私は自分が女性であるということに違和感を抱いてきたんですよね。やっと二十歳でなんとか折り合いをつけたけど、それでも・・」と答えていた。
こんなストレートな答えをテレビで語れるというのは、すごい。内容ではなく、それがすんなり語れてしまうことに妙に感動した私だった。
私はカウンセラーである、ということに相違ない。職業はと問われればこう答える。
カウンセラーという職業に対する私のイメージは、サービス業というものだ。ときどきアンケートなどに、職業欄に丸をつける際、サービス業を選ぶこともしばしばだ。
ところが、中には自分のことを「職人である」と自己規定している人も多い。確かにカウンセリングの技法を用いて、ひとりずつていねいにかかわっていく作業は、どこか職人というにふさわしいかもしれない。
しかし、私はなんともいえない気持ち悪さ、いかがわしさを感じてしまうのだ。
市井の片隅にあって、目立つこともなくひそやかにカウンセリングを生業として生きる。それもいいだろう。でも、前近代じゃないんだから、私たちの仕事も厳しい競争や経済状況の悪化と無関係ではない。
たぶん、職人という言葉には、利益至上主義じゃないんだよ、有名になりたいという自己顕示欲なんかもってないんだよ、というポーズが含まれている。その偽善的ポーズが私はいやなのだ。
だって、経済的に経営が維持されることを目指すことは当たり前だ。そのことを恥じることはない。それに、少しは名前が売れなければ、クライエントを獲得することもできない。有名になりたいという欲求は誰にでもあるのではないだろうか。
似非禁欲的な姿勢ほど、たちの悪いものはない。だから私は、職人ではなくサービス業者だと思っている。その上に専門性があり、技法があり、さらに経済的収益バランスとカウンセリングの質的向上の両立をぎりぎり図り続けることこそ必要だと思う。
25日木曜日の朝日カルチャーセンター新宿校での講義終了後、「共依存・からめとる愛」のサイン会も開きます。どうぞ皆様聞きに来てください。
また、今度の日曜日(28日)は、徳島市で講演の予定です。
四国の方、ぜひ聞きにきてください。まだ、満席ではないようです。
今日からDV被害を受けた母子のプログラム(日本版コンカレントプログラム)が始まった。
武蔵野大学に朝10時集合。
RRPのDV加害者プログラムに加えて、日本ではまだ実施されていないDV被害母子を対象としたプログラムの実施にかかわるのは勉強になる。
しかし、連日の原稿ゲラチェック、仕事、などなど、もろもろ、エトセトラ、で睡眠時間が足りない日々が続いている。
というわけで、今日は帰りに伊勢丹に寄って洋服をいくつか買ってしまった。
夏物のバーゲンがもう始まっているのだ。ヨージ、ジュンヤワタナベ、マックスマーラ・・・・買うことで、どうしてこんなにこころが満たされるのだろう、とつぶやいてみるのも楽しい。
別に買い物依存症じゃねえし・・、わけわからんし、はあ?(●●調でいってみよう!)





