2011年06月13日

綱渡り的生活

シネスイッチ銀座の東ちづるさんとの対談も無事終了。
ほぼ満員の観客を前に明るいスポットを浴びての30分だった。節電のせいか、暑かった。考えてみれば私は前期高齢者、東さんももうすぐ50歳だとのこと。ほんとにきれい~
「らいふ」(講談社)というサイン本もいただいた、ラッキー!!

あれからしばし「人は何を求めて映画を観るのか」という問いにとらわれた。
前回、国力の低下ではないかと書いたのだが、果たしてそうか。思いついたのが、世界一しあわせな国デンマークだからこそ、あんな不幸な映画を観ることができるという推測だ。しかしイラクやインド、そしてかつての韓国だって、軍国主義時代につくられた映画はシリアスで重厚である。だから一概には断定できない。
私だってすっきりしたり元気になりたいときには、暗そうな映画は見ない。
何の根拠もないのだけど、多くの若い(といっても30代まで)のひとたちは、とにかく感動したいから映画を観る。もしくは異世界にどっぷり連れて行ってもらいたい(それも受動的に)から映画を観るのではないか。考えさせられたり、しばし意味をつかむのに主体的関与が必要な作品にはだから食指が動かないのかもしれない。

ある研修会の講師をしたときのこと、とにかく参加者がやたらに泣くので困った。なんだか彼や彼女たちは、「泣きたいから」参加しているのではないかと思ったのだ。「号泣する準備はできていた」(江國香織)ではないけど、順序がぎゃくなのだ。
ひょっとして映画も、泣くために見ているのではないかと思う。
知識人という言葉も消え、一般教養という言葉もどこかに行った。背伸びしてまで教養を身に着ける姿勢はダサいと思われるのだろうか。
さりげなく知識を開陳してそれ以外は背景に溶け込むようにしてバカを決め込むという手の込んだ姿勢が求められているのかもしれない。
私などは、この年齢になっても背伸びがやまないという醜さを持て余している。実際の身長は徐々に縮んでいるのに。

国力というより教育力の結果かもしれないと思ったりする。受験科目が少なくなってからというもの、大学生の知識量があまりに低いことに驚く。当然知っているだろうと思って話した内容をあっけらかんと「それってなんですか?」と尋ねられるのだ。
一から説明する気力もなく曖昧に笑って終わりにする虚しさ。
フランスも韓国も、自国の詩を暗記させることを徹底している。この語彙力の強制は思考と思索の基礎ではないだろうか。
ああ、こんなことを書くと、高齢者の愚痴と思われるのでこのあたりでやめよう。とにかくミニシアターがこれ以上なくならないようにしたいのだ。

4月10日の高円寺素人の乱主催の反原発デモの様子をYoutubeで何度も見ている。その都度感じる違和感は、「楽しく」デモしなきゃいけないのか、ということだ。それはシリアスな映画人気の低迷と通じるものがあるのではないだろうか。
どうして暗い顔でつきつめた顔ではまずいのだろうか。歌ったり 踊ったりするのは戦略ならわかるけど、笑ってなきゃいけないというあのデモの雰囲気は、警察警備のものものしさとは別にやっぱり違和感がある。

A社の原稿を書き上げ、K社の原稿校正を完成させる。ああ、しばらくはほっとできる。
ある編集者が思わず「信田さん、綱渡りですね・・・」と驚いていた。
たしかに、私が暇な大学教員だったり文筆専業だったらわかるけど、カウンセラーとしてけっこうな激務の合間に原稿書いていると知ったひとは驚くはずだ。
自慢じゃないけど、自分でもやばいと思う。首がきゅ~っと締められているみたいな毎日。

そんな中で今日は日本臨床心理士会代議員会において、日本臨床心理士会理事として選任された。
おめでとう、なのか、それとも綱から落ちないでね、なのか。それが問題だ(笑

投稿者 sayoko: 02:20