2011年06月07日

映画「光のほうへ」

デンマーク映画「光のほうへ」については、すでに一部Blogで述べている。
今週の金曜10日には上映終了後9時10分くらいから、東ちづるさんとの対談をシネスイッチ銀座で行うことになっている。HPでは告知しているし、Twitterでもツイートしている。

今日配給会社の32歳の女性がやってきて完成したパンフレットをもらった。私をはじめとしていろいろな人がコメントしているが、表紙の写真が美しい。
常々私はその国の潜在的エネルギーは映画を見ればわかると考えてきた。日本の戦後も、黒沢や成瀬、そしてあの小津安二郎をはじめとする数々の映画監督の作品はそれほど製作費をかけない中できわめて良質なものだったと思う。
陰影のはっきりとした黒沢、成瀬の抑制された情感と映像、そして小津の独特の世界(能にも通じる型の踏襲)は、今でも特にヨーロッパの映画通に熱狂的ファンがいることからもわかる。
パリでは小津は今でも上映されている。

それに比べると日本映画は陰の部分が消失してきた。そして構成や結末も含めて「わかりやすさ」が全面に出てきた。その対極のわけのわからない芸術家気取りの映画は、やたら高踏的で技術だけが前面に出て鼻につく。
時折陰のなさ、つまり明るさだけを貫きながら哀しみと喪失を謳うことのできる犬童監督の「メゾンドヒミコ」のような作品、奇跡的な解釈の多様性を残した「ゆれる」(佐藤美和)が生み出されてきたが、おおむね美しさは損なわれていない。

回り道をしたが、「光のほうへ」を見て感嘆するのは、底辺に生きるひとたちの生活をあますところなく一切の情緒をそぎ落とし描き続ける姿勢だ。その作品を見るひとたちがいるから、その作品が成立するのだが。
翻って、虐待死の相次ぐ日本でそれを描いた作品があっただろうか。「誰も知らない」は希少なネグレクトの映画だが、日本の貧困を今こそ描く映画が出てくるべきではないだろうか。
「国力」というものを信じたくない私だが、「国家の品格」や「日本人の誇りの本が出版されるのであれば、その証明として、映画で日本の底辺の家族を描ききる必要があるだろう。
暴力、依存症、ネグレクト、貧困、すべてを失っていく人生といったものを、淡々と描くこと。
安易に「風景の美」「絆の確かさ」「つながりを求める善意」といった落としどころで結末を救いにしないこと。

わかりやすさ、楽しいこと、おもしろいこと、笑えること。これはすべて消費欲求を満たすことにつながる。
配給会社の女性も言っていたが、20~30代のひとがほとんど見に来ないそうだ。暗い、わかりぬくい、つらそう、となったら映画なんか見ないのだそうだ。
自分の等身大の世界から外部に出ることを怯え、とりあえず今日笑って過ごすこと。
テレビのお笑いブームもそれにつながるかもしれない。とりあえず盛り上がって笑うことで、情緒も時間も消費することができる。

しかし、わからないこと、暗いこと、つらいこと、先の見えなさにじっと耐えることで、消費されたわかりやすさがもたらす喜びよりはるかに深い感動を得ることができる。
おそらく耐えられなくなっているのだ。原発のニュースの深刻さにも耐えられないのだ。だからマスコミは希望を安易にまき散らす。
そのことと「光のほうへ」を忌避する若いひと(そうじゃないひとももちろんいるだろう)とは重なって見える。

暗部を見据える力が衰退しているということは、国力の衰退だろう。誤解をおそれずにその言葉を使う。韓国と比較すればよくわかる。韓国映画のテーマの悲惨さ、深さ、残酷さ。それが観客を動員するという現実。
日本ではほとんどヒットしない映画ばかりだろう。

長々と書いてきたが、「光のほうへ」で描かれている現実は日本にも広範に起きていることだ。ただ、誰もそのことを映画やドラマで表現しないだけのことだ。
私の好きなダルデンヌ兄弟の映画も同じトーンである。
フランスとはことなる北欧の映画の粘着力は国力というより文化力のように思われる。
ぜひ多くの方に見に来てもらいたい。
そして、どのような感想を抱かれたかをできれば聞いてみたいという不可能な欲望に駆られるのだ。
東日本大震災の後だからこそ、家族の絆などという美辞麗句で現実を糊塗することなく、見据えてほしい映画である。

投稿者 sayoko: 00:25