2011年04月12日

3.11から一か月

午後2時46分、サイレンとともに被災地で、被災県で一斉にこうべを垂れて黙とうをささげるひとたち。私もカウンセリング室で時計を見ながら、原宿の片隅で心の中で黙とうをささげた。
多くの波に呑まれた御霊を思って。祈ることしかできない、そんな思いで。

今日のお昼、某新聞社の取材を受ける。「東京も被災したのではないか」というお題だ。
そこで話しながら、3月11日以来ずっと頭の中で考え続けてきたことがまとまり始めたという感覚を得ることができた。
やっぱり話しながら考えるひとなんだなぁ、私って、と思う。もうひとつ電車に乗っているときもふっと天上から降りてくるようなアイデアを得ることもある。(以上は余談です)

通勤電車に乗りながら、気付いたことがある。地震以後あまりに不安な私は乗客を観察してみた。携帯を見ている人が多いのは相変わらずだが、気のせいか文庫本を読んでいる人が増加したようだ。カバーをつけて座って、中には立ちながら読んでいるのだ。
レンタルショップも非常に混雑している。実は私も震災直後立て続けに5本のDVDを見たのだった。
おそらくあの日以来決定的に変わってしまった日常(つまり非日常化した)と直面できず、本の中、もしくはDVDの画面の中の物語によって生きようとしているのではないだろうか。今夜も10時近くに乗った電車の中で、多くの通勤帰りのひとたちの所作から伝わってくるのは、ただただ「耐えている」という空気である。
おそらく諸外国からすればフクシマからそれほど遠くない危険なTOKYOで整然と日常を送る日本人は武士道を体現した礼節正しき存在とうつるかもしれない。
でも、私たちは「耐えている」のだと思う。
襲いくる不安、不確かな情報、信じられない官制報道、絶え間なく襲う余震、悲惨な津波被害者に対して何もできない無力さに、ただただ耐えているのだと。

耐えて日々を暮らすこと。これを絶望というにはあまりに絶望的な状況が多すぎるのでためらってしまうのだが。
耐えながら笑い、買い物をし、おいしいものを食べる。必死で桜を見て焼肉やホルモンを食べるのだ。

投稿者 sayoko: 02:05