2011年03月21日
なぜかこんな時にすいすい読める本が
なぜかこんな時にすいすい読める本が
関東大震災のときの朝鮮人の大虐殺は、東京から千葉まで広範囲に起こっていたという記録がある。
たしかに日本ではこの地震における暴動は起きていない。これからも起きないだろう。
せいぜい義捐金箱が盗まれた、公用車からガソリンが盗まれたくらいのものだ。でもそのぶんひたひたと押し寄せてくるのが、善意や正義に名を借りた、いや被災者のことを思えばという枕詞によって行使される統制である。
14日東電の計画停電に伴い、JRをはじめとする鉄道各社が大幅に本数を減らした時の光景を思い出す。新宿駅ではホームに人があふれないように、階段を下りるひとを制限していた。整然と4列に並んだ乗客が黙ってひたすら順番待ちをしている光景をみてどこか異様なものを感じた。おそらくあと1時間くらいは並ばなければならないはずだ。
歩くこともできず、タクシーに乗るお金もない、騒いだって事態がよくなるわけじゃない。とすればひたすらこうして列を乱さず待つしかないじゃないか。
そんなひとびとの想念が湧き上がるのが見える気がした。並んだら最後隊列を乱すことはできない。その中に入ってしまったら不可能だ。そうさせる何かがそこには働いている。
薄暗い東京のスーパーでは、ひとりあたり牛乳1パック、納豆も1パックと決められている。そんな中を日常感覚を維持して買い物をしているひとたちを支配しているものは、あの想念と同じものに思える。
暴動とは、自分たちより力のあるものに対して行われるのだが、あの整然とした隊列に満ちていた力は、黒雲のように湧き上がる不安、それを覆いつくそうとする規律だ。それを支えるものは、正義は我にあり、したがってそれを乱すものは許さないという圧力であった。
その正義を担保しているのが、被災地のひとたち、テレビで流され続けた津波の光景なのだ。
ナショナリズムが今ほど身近な時はないのではないだろうか。残念ながら、世界の関心がこれほど日本に向いている時はなかっただろう。そしてその中心にあるのは、ひとりの英雄やカリスマではなく、失われた美しい風景の記憶に支えられた日本という国なのである。
一つ不思議なことがある。私はそれほど村上春樹が好きではないし、熱心な読者でもない。ところが、地震が起きてからはなぜか彼の本がすいすい読めるのだ。
「ねじまき鳥クロニクル」は、通勤途上やっとの思いで①を読み終わっていたのだが、なぜか②も③も読みだしたら止まらない。
こちらの世界ともうひとつの世界、井戸の底に落ちた描写、ノモンハンの記述・・・・あの紙一枚浮上したような「現実」感覚が、今の私にはなぜかしっくりくるのだ。
これは本当に不思議な発見だった。
さて、元気にならなければ。もう少し楽しい日常をとりもどさなければ。
支援するがわは元気でいる必要がある。これはカウンセラーとして日々痛感していることだ。





