2011年03月16日

支援について

がらんとした東京明治通り、閑散とした表参道。これまで見たこともない光景である。
これは日曜(3月13日、日曜出勤の際)に私が経験したものだ。
ガソリンの不足、余震への恐怖もあるだろうが、何より報道が地震一色だから原宿に出かける気が起きないというのが正直なところだろう。
タクシーに乗っても、すいすい動けるのだ。まるで戒厳令下のような(といっても経験ないけど)静けさだ。
私の住んでいる地域はさいわいまだ計画停電が実施されていないのだが、コンビニやスーパーの食料品売り場に行くと、遠い昔オイルショックのときのトイレットペーパーの買いだめを思い出す。
とにかく何もないのだ。飲料水などもう何日も見ない。
諸外国の報道では、神戸の時と同様に暴動が起きる気配もない日本を讃嘆しているようだ。しかしあの食品や電池などを買いだめる行動を見ていると、大きな不安を抱いていることを感じる。たしかに、地震だけは不可抗力だ。だからこそ、手に取って確かめる物を確保して「備えあれば憂いなし」とするしかないのだ。
薄暗い街を歩き、薄暗いコンビニに入って何もない棚を見る。そしてテレビをつければ被災地の目を覆うばかりの惨状が映し出される。
先ほども立て続けに余震が3回起きた。原発の報道は見るのも恐ろしい現実が迫っていることを感じさせる。
これだけでも十分何かが奪われる感覚をおぼえさせる。
災害時に性犯罪が増加する理由に、このような無力感が影響しているに違いないと思う。
私は男性になったことがないのでわからないが、これまで自分が把持していたものが大きく損なわれてしまうこと、自分の力ではどうしようもない現実によって圧倒されてしまうことに直面したとき、性的弱者である女性や子供を蹂躙し、思いのままに支配することでかろうじて維持されるものがあるのかもしれない。
性欲とは本能ではなく、ある種の支配行為、他害行為であることがもっとも顕著になるのが、災害時と戦時だといったら言い過ぎだろうか。

被災者は支援を求めている。そして情報が入るほどに「何かしたい」「何か役にたちたい」という人が全国で膨大な数誕生する。
この両者の需要と供給のバランスをどうとるのか。どのように交通整理をつけて系統的に、かつ公正に支援を配分するかが問われている。今回のように、多層的複合的、かつ広域にわたる被害であればよりいっそう複雑な指揮系統が求められるだろう。

新宿駅の信号待ちの際、垣間聞いた若者の言葉。
「あんな募金なんて意味ねえんだよ、しのごの言わずにさ、現地に言って避難所で好きな歌唄ってりゃいいんじぇね?おれも気持ちいいし、聞いてるほうもさ、気持ちいいし」
かなりの大声で隣にいる若い女の子に得意げに語っていた。
なーるほど、そういう考えもあるか、というより、ホスト風の茶髪の兄ちゃんが真剣に語っていたのが印象的だった。
現地にはすでに外国からの支援は一部入っているようだ。
加入しているMLでは盛んにメールが交換され、支援チーム作りが進んでいる。阪神淡路大震災のとき、私は臨床心理士として仮設住宅に一週間ボランティアで入ったのだが、その折、組織として行動するか、とにかくできるところから動くか、という方針をめぐる対立があったことを思い出した。
対立というのは言い過ぎだが、方針の違いだろう。
これは革命のときも、日本の大学闘争のときも、繰り返し登場する路線対立だ。草の根的、ゲリラ的支援と、政治的見通しをもった組織的支援との対立は必ず生まれるといっていい。

さて、今回の地震で、「支援」と「被害」をめぐって考えさせられることが多い(詳しくは私の著書の材料にしたいと思っているけど)。
首都圏に住む多くのひとびとを共通して覆っている不安は、支援という噴出孔に集約されるべきだろう。この支援したい、何か役に立ちたいという思いは、善意そのものであり、人間信頼を再確認させられる原点であることに違いはない。
しかし災害時に明らかになるこのエネルギーは、自助グループを支えている他人を助けるという柱と同じだろう。
自分はこんな安心できる地にいることにうしろめたいものを感じる、だから現地のひとを支援する。
報道によって知った現実によって自分も傷つき不安になる。だから支援したい。
いずれにしても、支援するがわもどこかで駆り立てられているのだ。
喪失感、無力感がどのような経緯、どのような行為によって表現されわずかの力を獲得するのか。支援なのか、暴動なのか、はたまた弱者の収奪なのか。
雑駁な言い方になるが、みんなが当事者として、地震にかかわっている。あの若者も、彼なりに一生懸命考えて歌を歌いたいと思ったのだ。

被害については、また近日中に。
こんなに長々と書くのは、他の原稿を書くエネルギーがまったく出てこないからである。
編集者のみなさま、すみません。

投稿者 sayoko: 00:26