2007年09月08日
ああ、驚いた(汗)
今日は台風一過の秋空のもと清々しい・・と書きたいところだが、なんだか蒸し暑く、道路に貼り付いたちぎれた街路樹の葉がなんとも無残だ。
午後は仕事の合間に某育児雑誌の取材を受ける。3人でインタビューという編成だった。雑誌や新聞などの取材は多いが、ためになるのはカウンセリングをしていては気づかない「ふつう」のひとたちの意識に触れることができる点だ。
格差社会がいったいどのような実態を持っているのかという反論がかまびすしいが、「みんな」とか「ほとんどの日本人が」といった粗雑な総称が無効になったことだけでも、大きな意味があると思う。というわけで、育児雑誌も対象別になっているらしい、まるで女性月刊誌が細分化された対象別に刊行されているように。
驚いたことがある。多くの子育て中のママ(少なくともその雑誌の読者)が、夫は仕事で忙しいのだから、子育ては私が全部受け持たなければと考えていることだ。質問の多くが、夫の協力があれば決して発生しない問いなのだ。ひとこと、「あ、そんなこと、しょっちゅうあるから大丈夫だよ」と夫が言えば雲散霧消してしまう問い。
それを言えずに、というかそんなことを夫に愚痴ることさえ禁じているママたちが、雑誌の質問コーナーに投書する。彼女たちが、伝統的な男女の性別役割分業にとらわれているわけではない。多くのママたちが働きながら子育てをしている中で、自分は専業主婦になっている。だからこそ子育てくらいは自己責任でやりとげなくては、と意気込みひとりで育児を背負うのだ。無収入だからこそ、子育てくらいはという責任意識が過剰になる。
彼女たちは結婚まで、いやたぶん出産までは収入を得た経験があるからこそ、無収入の身になった今夫を子育てに参加させることをためらう。
稼いでいないことは、セレブ妻のようなリッチさがなければ、ただただ養ってもらっているというひけめとなり、育児を「成功」させてみせるといった育児ロードへの過剰な参与へとつながる。
子どもはいい迷惑だ。子どもの泣き声から「あれは何を要求しているのか」を読み取ろうと必死になり、少しでも他所の子より変わったところがあればすぐに「医者に見せたらいいか」と不安になる。子どもの感情、子どもの身体をすべて知悉することが求められていると考える。
唯一経済力のない彼女たちにとって安心できるお金は「実家の金」である。こうして実家と専業主婦との癒着が生まれる。夫にも文句を言わせないお金だからだ。夫は一昔前のような面子はない。自分の財布がいたまなければ、妻の実家依存は平気だ。
他所の子との比較の際、男の子、女の子は大きなアセスメント(つまり査定ですね)の基準になる。男の子だから、女の子らしい、といった言葉がおそらく氾濫するのだろう。こうして、安倍内閣のPTによるジェンダーフリーバッシングなどの力を借りずとも、ごく当たり前に「女の子は女らしく、男の子は男らしく」とママたちは自明のこととして育児をする。だから自民党の○○代議士、ご心配なく。
女性が経済力を持った経験が、却って専業主婦になったときに性別役割分業を正当化するように機能すること。愛情という不確定なものによってでなく、稼がないママは要は金銭というシビアな要素によって育児に賭けるようになるのだ。
そして、育児の最中に否が応でも参入しなければならないママたちの付き合いの中で、ジェンダー意識が再生産されていくこと。
こんなことはひょっとして女性学の研究者によってすでに研究されつくされているのかもしれないが、私はほんとに驚いた。私が子育ての時期といったい何が変わったのだろうか、と。彼女たちが目前の育児に迷いながら、もっと別の視点から自分のおかれた状況を理解できるようなツールがあればと思った。女性学もそのために役立つものであればと思う。
取材にやってきたライターの女性が、ちょうど私のシンクロニシティのBlogを読んだ直後、私への取材同行が決まったとのこと。これもひとつのシンクロですね、と全員でうなずいたのだった。





