2006年06月06日
DVと虐待の間には深い溝があるのか
諏訪での講演は100人余りのひとが参加してくださった。今回もとても気持ちのいい講演だった。窓外には少し煙った諏訪湖が横たわり、白い帆に風を受けてヨットが湖面を走っていた。終了後は上諏訪温泉にも行くことができた。児相の若いイケメン?のCWの隣に座っての交流会はこれまた楽しいものだった。真澄のおいしいお酒を持参していただいたYさん、温泉を案内していただいたSさん、Mさん、ありがとう。
そしてCAPSすわの皆さん、ありがとうございました。
先日、都精研でブレーンストーミングを行った。
有志が集まり、DVにかかわる援助者と虐待にかかわる援助者の交流会を開いたのだ。実はこのような試みは画期的である。
知るひとぞ知る、DV援助者と虐待のそれとはあまり交流がない。所轄官庁も内閣府と厚生労働省、当該機関も児相と男女共同参画センターと見事に分断されているのだ。
2001年に「DVと虐待」(医学書院)を出版したのだが、当時その題名は画期的だった(と自負している)。近年一部の女性センタースタッフによる翻訳本「DVにさらされる子供たち」が出版され、DVと虐待を統一的にとらえようと言う試みがひろがったことは大きな意味がある。
家族内暴力という統一的視点からとらえればDVも虐待も老人虐待もそこに包含されることはいうまでもない。
しかし現場の意見を聞くと、ことばを持たない無力な子供と、暴力を受けているとはいっても成人である妻(母)とを比較すればどうしても子供を優先してしまう、とのことである。ときには子供に肩入れするあまり、母への怒りが湧いてくることすらあるという。母子でDVから避難する場合にはこの相反する感情がしばしば援助者を苦しめるだろう。私にも経験がある。
ここ数年のジェンダーフリーバッシング、反フェミナチといったフェミニスト的言説に対する憎悪とそれはどこか通じるものがあるのではないか、と思う。岩手大のK妻さんが述べている内容を読んでそう思った。(対抗文化としての<反「フェミナチ」>、『ジェンダー・フリー・トラブル』白澤社、所収)。
周縁化された男性たちが、自分たちを権力の座からひきずりおろしたにもかかわらず、さらに自分たちを抑圧する存在としてフェミニストたちに憎悪を向けていることがそこでは指摘されている。
昨年の夏、わたしが経験したメンズリブ系の男性からの罵倒(といっていいだろう)は、バックラッシュ派とは正反対に位置する男性ですら、加害者扱いされることで私の発言を憎悪するということを証明した。
別に虐待の援助者が周縁化された男性と等値であるというつもりはないが、被虐待児という絶対的弱者の立場に立てば立つほど、DV被害者と自称する母の抑圧者としての側面が際立ってくるのだろう。自分よりはるかに弱者であるはずの存在が、その被害者性をふりかざして自分を抑圧することへの憎悪が援助の場に充満する。おまけにDVや虐待の援助者の多くは女性なのである。女が女を憎悪する。
とするとDVと虐待の分断は当初私が想像していたフェミニズム対ヒューマニズムといった単純な対置ではなく、もっと複雑なパワーの錯綜によるものなのかもしれない。
しかし肝心なことは、その頂点に存在するのがDV加害者と指弾される夫(父)であり、その構造を規定している家父長制であるということだ。小倉利丸の言う「もっとも巧妙な支配は、一見すると対立するかにみえる対抗文化が実際には支配的な文化の補完となるような文化のヘゲモニー構造を持つ場合」*は、援助現場でのDVと虐待の対立にそっくり当てはまるだろう。
双方の連携、連帯のためには、そしてこの狭い業界内(だからこそかもしれない)での最低限の合意のためには何が必要なのだろう。
どの偉い先生・研究者の論文もその問いかけで終わっている。問いを発するだけでいいのが研究者なんだろうかと思ってしまうじゃないか(間違ってたらごめんなさい)。
わたしたちはそこから先を実践していかなければならない。そんな私たちと歩調を合わせる気概を持った研究者だけを信じることにしよう。
*「スペクタクルとサブカルチャーの価値崩壊」『現代思想』Vol28-6、青土社、2000





