2007年03月03日

それぼく・身体をめぐるレッスン

周防監督の久々の作品「それでも僕はやってない」を観る。
これまでの監督作品とは打って変わったシリアスな内容だ。痴漢冤罪をめぐる日本の裁判制度の問題点をえぐる内容だ。有罪率が諸外国に比して異様に高いのはなぜか、逮捕されたあとに警察が否認を許さない仕組みはどうなっているのか、裁判が結果的には裁判官の心証によって左右されること、などが丹念に描かれる。
と書いてくると、それほど私が本作品にこころ動かされなかったことがバレバレだろう。はい、正直つまらなかったっす。それどころか、うんざりしたっす。
監督の問題意識を訴えるなら、別に映画つくんなくってもいいんじゃない?というのが正直なところだ。
観終わってから一週間以上が経っているが、こころに残るものがない。あれだけの脇役を使いながら、鳴り物入りで宣伝したにもかかわらず、おそろしく印象は希薄である。
もうひとつの疑問。なぜ『痴漢』なのだろう。
たしかに、私もいっとき考えたことがある。ひとりの男性の社会的生命を断つには、満員電車にいっしょに乗り込んで、降りる寸前に腕をつかんで「このひと痴漢です!」と叫べばいいのだ、と。復讐心に燃えたらそれくらいのこと、やってやろうかと想像したこともある。
でも、誤解しないでほしい。実際にはできません。よほどの緻密な計画を立てなければ、無理だ。それに私、年ですもんね(涙)
満員電車という非人間的環境を不問に付して、あの狭い空間の当事者同士しか立証不可能な犯罪だからこそ、冤罪という事態が起き易いこともわかる。
しかし、冤罪が認められ、無罪をかちとった帰りの電車で盗撮をした男性、最高裁まで戦ったのに、再犯した男性がいることも事実だ。
あの映画が、被害者の証言を無条件に信じることの弊害を訴えているかのように解釈されることを恐れる。主人公の冤罪は、別の痴漢実行者の存在を訴えているのであって、痴漢がなかったといっているわけではない。
それがあたかも、痴漢被害者の言い分には嘘がある、やられてないのにやられたと言い募る、と誤解されるのではないだろうか。
また月刊「現代」3月号で周防監督は北村晴男との痴漢冤罪をめぐる対談において、「鉄道公安室に黙って入ったらだめです。入り口でだーっと逃げるのが一番ですよ」と述べている。
そのせいかどうか、昨日の朝、山手線で痴漢の現行犯として原宿駅に連れて行かれた50歳の男性が、駅のトイレの窓から飛び降りて線路沿いに逃げた。おかげで山手線は全線にわたってダイヤが乱れたという。容疑者は結局逃げおおせたらしい。
周防監督の訴えたい点、日本の警察の取調べ調書のナラティブ作成方法、無罪により面子がつぶれるという裁判制度なのだろう。それに対して異論はない。
だから(にもかかわらず?どっちの接続詞が適切?)、毎日満員電車の中で女性の体に触っている多くの痴漢男性が、いっせいに「俺はやってない」と言い出すことを恐れる。
その方向に映画が曲解されることは周防監督の本意ではないだろうし。

岩波書店から出版されたばかりの「身体をめぐるレッスン 4〜交錯する身体」に私の文章がのっている。『家族は再生するのかー加害・被害の果てにー』という題名だ。
サイズも手軽なので、ぜひ書店で手にとってください(もちろん買ってください)。
私はいつもの癖で、いまだに読めないでいる。リキを入れて書いたものほど、怖くて読めない。何が怖いって、そ、それはわかるでしょ、読者からの評価ですよ。

投稿者 sayoko: 02:46