2006年08月25日

わたしが「モラハラ」ということばが嫌いなわけ

フランスの女性精神科医、マリー・フランシス・イルゴイエンヌが提唱した造語モラルハラスメント(略してモラハラ)が水面下で広がっている。外傷等が残るため顕在化しやすい肉体的な暴力と違い、言葉や態度等によって行われる精神的な暴力のことを指すらしい。
ネットで検索すると私から見れば、まんまDV被害者たちがモラハラ被害者を自称して集っている。またモラ夫という造語がまるでDV夫と同様に用いられているのをみるとちょっとびっくり。
あるひとが某県の相談センターにモラハラ被害者だと℡したら「うちでは精神的DVというんです!」と切られたとぼやいていた。ああ、わたしもおんなじことをしたことがある、と思い出した。もちろんことばの好き好きをコントロールできないのはたしかだ。
前掲書を読んだひとによれば(わたしは読む気も起きない、すんません)、けっこう支離滅裂な本らしく、アダルト・チルドレンのときと同様、その語感と記述例が多くのひとをひきつけたのだろう。
わたしがこの言葉を直感的に忌避した理由を挙げてみよう。おそらくそこにはフェミニズムとか家父長制、支配、権力構造ということばへのためらい、嫌悪があるのではないだろうか。
DVということばは世界女性会議で採択され、閉ざされた家族の中で虐げられてきた女性がそれを「暴力」と名づけるために生まれた。しかし日本では身体的DVだけに限局されがちで、目に付かない隠微な支配についてはDVと呼ぶためらいがあった。しかしドゥルースモデルの車輪の図によれば、パワーとコントロール(支配と権力)・・それもことばやしぐさによる・・・こそがDVの中心であることは明らかである。
だからDVと呼べばいいでしょ、というのがわたしの主張だ。モラハラと特化して、加害者を変質者あつかいすることは、却って彼らの問題を見えなくする。
特に家族内の支配と権力については、歴史的な視点なくしては語りえない。彼らの個性に帰したり、男というものをきめつける本質主義に堕してしまうだろう。
DVと虐待、パワハラ、セクハラ、アカハラのいずれもが、関係における非対称的権力関係を前提とする。「それ以外にもハラスメントがある、それをモラハラという」のなら、それは権力関係を前提としない「単なる」人間関係のトラブルにすぎない。そこにハラスメントということばを用いるのは、対象を拡大することで権力関係による各種ハラスメントの構造を隠蔽することになるだろう。
DVということばを用いないことで、戦略的にみてもマイナスが生じる。DV防止法が一度の改正を経てもなお不十分な法整備であることは被害者支援のひとたちが認めるところだ。そんな状況において、モラハラは精神的DVのことを言う、といった言い換えが流通することで、DV被害者のためのシェルター増設や家裁におけるDV問題のとりあつかいといった政治的課題が看過されることにならないだろうか。
DVよりモラハラのほうが好きだ、というのはなぜだろう。DVと定義することをためらわせる理由は?
やっぱりどうもフェミのにおいに対する拒否反応を感じ取ってしまうのは考えすぎかなあ。
はっきりとDVである、と定義するところから被害者が生まれ、加害者と呼ばれるひとが生まれる。その潔さ、社会的視点の明確さは、モラハラという中途半端な被害者意識醸成のことばとは比較にならない。モラハラ相談なんかができたというが、笑止千万だ。
「自分を好きになる」という言葉と同じくらい生理的にきらいなことばが「モラハラ」だ。

投稿者 sayoko: 23:58