2006年08月16日
「ゆれる」
西川美和(32歳)監督作品「ゆれる」を見る。
「かもめ食堂」の荻上直子より2歳年下である。これに「三池終わらない炭鉱・・」の熊谷博子監督を入れると、このところ女性監督の映画を多数見ていることになる。
それにしても若い女性監督の才気溢れる映画がこのように多数公開される時代が来るとは予想もしていなかった。男女共同参画?と呼ぶにふさわしい。
主演のオダギリジョーと香川照之の二人の演技によって濃密な世界が構築されている。一瞬たりとも気が抜けない映画だ。あっというまに2時間を超えていて驚いた。
ダルデンヌ兄弟の映画のようにメッセージ性が強烈でないぶんだけ、簡単に評論できない厚みがある。結果的にパンフレットの文章(何人かの)を評論するという間接的批評だけが残されることになる。でも川本三郎のあまりにずれたパターン化した評論をこきおろすだけというのではあまりに悲しい。だからちょっとがんばってみよう。
一見すると羅生門を思わせる解釈の多様性、藪の中の真実を描いた作品にもみえる。兄と弟の語る事件は法廷でのやりとりを通してそのズレがしだいに明確になっていく。しかし圧巻は気のいいうだつの上がらないすべてをあきらめたような兄の変貌ぶりだ。香川がそのあたりを実にたくみに演じ切っている。目の光に狂気が宿る瞬間が観客にも明確に伝わってくる。ちょっとばかり戦慄を覚えてしまうほどだ。
細部にも不気味な描写がまるで推理小説の一節のようにちりばめられていて、謎解きを迫る。雑巾がけを甲斐甲斐しくする兄のズボンのすそに倒れたお銚子から酒のしずくがこぼれおちるシーン、法廷で兄が明らかに自分をかばったことでパワーバランスが崩れたことを弟が自覚するシーンに活け作りの鯛の目玉を4秒ほど映す。このような象徴的なシーンによって観客の不安はかきたてられる。
その不安は定型的な兄と弟のキャラの描き分けが破壊されつづけることへの不安である。まずよき兄が殺人者になることを防ごうとする救済者としての弟が描かれる。しかし、接見の際にそれを激しく憎みつばを吐きかける兄はこう言う。「あの家にいるよりここのほうがましだ、刑務所では家事をする必要がないから」
さらに女性と自分の関係を兄はとっくに知っていた、ということを弟が気付くことで、法廷で兄によって自分がかばわれてしまうという関係の逆転が起こる。弟をかばった上に自分の無罪も勝ち取ることになった兄は、勝利感に満ちて接見で弟に饒舌に釈放後の夢を語る。そして決定的なことを言う。
「ずっと俺のことを疑っていた。そのくせ俺を弁護するなんて、殺人者の弟になりたくなかっただけだろう」と。そのことで逆上した弟は接見室の椅子を投げ捨てる。
法廷で弟は兄が突き落とした場面を目撃したことを証言する。一転して有罪を宣告するに等しいその証言を聞きながら兄(香川照之)は、勝利感を漂わせるようなさばさばした表情を見せる。
兄か弟か、どちらが正義かをめぐるパワーゲームが本作の骨子である。言い換えればどちらがより被害者であるか、救済者であるかの争いともいえる。
兄は弟のためにがまんを強いられ因習深き地方都市で黙々と生きる。それは被害者でありかつ救済者でもあることの示威行為である。
女性の死によって弟は兄の救済者になるチャンスを生まれて初めて手にした。それは兄にとって許されないことであった。ほんとうの意味での被害者・敗者になってしまうのだから。被害者であっても敗者ではない、これが兄の誇りであったのだ。
そして最後に弟の証言になんの反論もせず、弟の行為を晒すこともせず受刑することで、兄は弟を救ったのだ。そうして弟に勝った。
川本の言うように「ほんとうの家族になるためには一度は殺さなければならない」などという格言は浅薄だろう。
それにしても、不明なものが兄の腕の傷である。一度目は一本の傷だったのが、法廷で映し出されるときは二本である。これがなんの象徴なのか、パンフで誰も言及していない。リスカにしては長すぎる。
母の遺品の8ミリを映すシーンで弟は何を見たのだろうか。なぜ彼はそのとき号泣したのだろうか。ある場面がそこには映されていたと想像してみる(映画ではその場面は映されず、観客の想像に任せるという巧妙な設定が施されている)。
谷川で落ちそうになったとき、兄が手を差し伸べ、そのとき自分がしがみつく場面を8ミリで見て、そのことを思い出したのだろうか。傷はそのときのものなのか。とするとつり橋にかつて行ったことがあることを忘却していたのは、兄に自分が救われているという事実の否認だったのかもしれない。そして二度目の傷は女性を救おうとしてつけられたものだとしたら・・。
自分がどうあがいても兄は救済者であったこと、さらに「偽証」したことで加害者になった自分は被害者である兄に対してもう勝ち目はないことを自覚したのだ。それがラストシーンの兄に対する衷心の叫び「おにーちゃーん!」につながる。それを受けた兄の顔がしだいに笑顔になりそうなところでエンドロールとなる。そしてその笑顔の解釈も多様なまま投げかけられて終る。
わたしの上述のような推測、解釈も、つまるところひとつの可能性でしかない。もっと多様な読みがあるのではないか、という欲望を喚起する点において、本作は掛け値なしの秀作である。





