2005年12月17日

興奮して眠れなくなった本

例年になく寒さが厳しい12月だ。
「明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし」道浦母都子『無援の抒情』
わたしの大好きな歌集、その中でも好きな短歌がオビになっている。
過去ログで触れた「安田講堂1968-1969」(中公新書)を購入。
ためらいながら眠る前に読み始めたら、いかん、ああ、止まらなくなってしまった。
わざと飛ばして読んだにもかかわらず興奮して眠りに就けない。
これまでも全共闘もの、安田講堂ものは数少ないながらも出版された。しかしなんといってもこれは「当事者」による記録だ。
わたしは1968年大学4年だった。卒業後、あの安田講堂の篭城、機動隊による放水のテレビ中継までの日々はなまなましい。
団塊オヤジは今では蛇蝎のごとく嫌われているが、それもこれもあの時代を生きた特権に対する羨望もあるだろう。
読みながら記憶がよみがえる。わたしもそこにいたことを昨日のように、気温、空気、音とともに再確認する。ぼうだいな資料を読み返しながら、著者島泰三は私と同じように記憶をよみがえらせて本書を書いた。
日大全共闘との熱い共感、共闘が本書のひとつの柱になっている。東大と日大が安田講堂の前で合流する、ドラマのようなシーンは圧巻だ。
彼を書くことに駆り立てたのは,同期の友人たちの相次ぐ死(病死、自殺)だったという。しかし読みながら思った。彼に書けなかったことは多いはずだ、と。
名前を出しているのは宮崎学くらいのものだ。名前を出してはならないひとたちが、本書には膨大に存在する。出せない理由はさまざまだ。
社会の中枢に位置するひともいるだろう。彼らにとってはあの時代のできごとは封印されるべきことがらなのかもしれない。語れないのか、語りたくないのか。戦争経験とは異なる重さとともにこの2年間のできごとはいまだに多くのひとたちのタブーであり続けている。
著者による、歴史のif(もしも)はいくつもある。
巻末の詳細な政治的年表(ほぼ毎月大きな変動が起きている)を見ながら、私自身が語れないでいるあのころの経験を想起してしまった。10年若いひとたちには想像もできないかもしれない。
ワルシャワ労働歌、インターナショナル、など今でもメロディーは忘れてはいない。
語るということはその裏側にある語りえないものを同時に示している。
それにしても貴重な書である。勇気ある著者と企画した中公新書に敬意をはらいたい。

投稿者sayoko:02:44 |