2006年05月24日
白夜の女騎士(ワルキューレ)
評判の蜷川演劇「白夜の女騎士(ワルキューレ)」を観る(@シアター・コクーン)。
前売り券は到底入手できず当日券の抽選に当たり(なんと155人の立見席だったのが、3番のカードを引き当てた!)最後列で座って快適に観劇できた。
「オイディプス」はあまり感心しなかったけど、今回は野田秀樹原作の蜷川演出という組み合わせなので期待は大きかった、はい。
朝日新聞評で「70年代の学生運動の挫折へのオマージュ」を隠されたメッセージとして野田作品を読み替える、といった内容が紹介されていたので、それなりの期待もあった。
シアターコクーンの戦略はジャニーズ系もしくは人気タレントを本格的演劇のトレーニングで鍛え、そこそこの仕上がりを見せる点にある。そのことによって従来は舞台といえばライブしか知らないような若者たちが演劇に目覚めるという効果をもたらした。
おまけに観客の動員も見込めるときている。今回も松本潤(嵐のメンバー)をお目当てにした若い女性や女子高生がどっと詰め掛けており、立ち見も含め超満員。立ち見もできずに去るしかない人たちもおそらく100人はいただろう。こんなに演劇が人気があるなんてほんとに驚いた。
野田秀樹の演劇は初体験だったが、コツがつかめるまで時間がかかった。でもいったんつかんでしまうと、それほど疲れることはない。
目くらましがいっぱい、言葉遊びの華麗さは過剰だけど、折り紙を解体するように覗き込むと、実に硬派なメッセージに満ちている。
偶然にも過去ログに書いたように「ワルキューレ」を観た後なので、「トネリコの木」の暗喩、炎に包まれて眠り続けるブリュンヒルデなどが予備知識のおかげでよくわかった。
しかし、どうにもわからないのがなぜサスケ(松本潤演じる主役)が学生運動の犠牲者の象徴なのかと言う点だ。
蜷川が世代的に唐十郎をはじめとする60年代末から70年代にかけての時代精神にシントニックであることはうなずける。その後の若い世代にあの時代に命を賭けて戦った学生たちのことをなんとかして伝えたいという気持ちを持っていることもよくわかる。
しかしそれにしてもヘルメットとタオルで顔を隠した当時の学生運動スタイルと機動隊の群れが何度も登場するのは唐突過ぎないだろうか。
最後の場面で、機動隊の群れの上をサスケが飛び続ける(ワイヤーに吊るされて)のだが、その正面には安田講堂とおぼしきシルエットの建物が見え、そこにブリュンヒルデのヒロインが残照を背景に立ち尽くすのだ。
効果音は催涙弾を発射する音、それとあの懐かしい「ワルシャワ労働歌」である。ああ、何年ぶりだろう、と瞬間過去にフラッシュバックするあの歌。新宿紀伊国屋の前の通りをフランスデモで埋め尽くしたとき、ワルシャワ労働歌はビルの屋上にまでこだました。
ワーグナーのワルキューレの音楽とワルシャワ労働歌を舞台上で大音響で聞くことができたことだけで、もう十分だったのかもしれない。異分子のように、頭が禿げ上がったおじさんを数人客席で見かけたが、あの歌だけを聴きにきていたのかもしれない。
それにしても、あまりに牽強付会だ。いくら野田秀樹の原作から蜷川が読み取ったとはいえ、全共闘らしき若者が奈落から上半身を出して一斉に赤旗を振ることがあの劇の展開にいかなる象徴的意味をもつのか。
おそらく嵐のフアンでしかないギャルたちは、「わけわかんない」けどとりあえず松本君が宙吊りになってがんばってかっこいいから満足なんだろう。
織田信長以降若者が命を懸けることへのシンパシーを感じさせる歴史的できごととして、蜷川が共感とともに描きたいという欲望を喚起されるのが「学生運動」でしかなかったということかもしれない。
ワグナーという形式はたしかにこけおどしの価値はある。しかしワルキューレと東大安田講堂を、野田秀樹を媒介としてドッキングさせるという試みは、あまりに強引に過ぎる。蜷川の意図だけがそれこそ宙吊りに浮かび上がるだけの演劇は、やはり失敗作といっていいだろう。





