2006年04月02日
怖くて読めない
桜は明日には散ってしまうだろう。
でも今年は花見もできたし、満足じゃのう。
禁煙運動の激化がもたらす問題について。
職場で分煙化、禁煙化が進むことで人間関係が「吸う人」「吸わない人」に別れる。
突然部屋を出て、喫煙室でこっそり話し込むことでコミュニケーションがインナーサークル化し、裏コミュニケーションが発生する。
吸わない人は吸う人から「我々を排除しているひと」という逆スティグマを与えられ、裏コミュから排除されるという報復を受ける。
こんな事態が起きているということをあるひとから聞いた。そのひとの住んでいる県は特に禁煙に熱心だということだ。
なるほど、個人の嗜好が健康問題へと発展し、それを抑制されることで起きる見えざる排除・逆排除の関係が、職場環境に影響しているということか。
「『ニート』って言うな!」内田由紀、内藤朝雄、後藤和智(光文社新書)の最後のほうで、後藤がわたしの発言を批判的に取り上げている。たしかに茨城の事件については社会的・経済的背景に触れてはいなかったが、カウンセラーとしてわたしが発言できることは家族(特に親)についてくらいなのだから仕方がない。それは親を追い込むために言っているのではなく、そのような親たちが孤立してしまわないように相談・援助機関の必要性を強調するためなのである。
第二章の内藤の発言は、アダルト・チルドレンについても同様だと思った。1996年のブームともいえる流行語化と同時並行的に勃興したバッシングは、まさに憎悪ともいえる激しさだった。
彼の投影同一化(メラニー・クライン)を用いた説明はなかなか面白い。社会にはびこる若者への憎悪が、教育という支配に帰結していくメカニズムはまったく同感である。
彼自身の親との関係そのものではないかと思えるほどの当事者性溢れる激しい筆致である。
若さを失いかけた不安を感じているはずなのにそれを否認しているおじさん(時にはおばさん)たちが、自分の不安を若者に投影して若者を思い通りに教育しようと支配する。
どこか共依存を思わせる支配である。
肝心の原稿締め切りが今日だったが、やっと構成だけが決まったという体たらく、とほほ・・。
出版社の名前に気圧されて、原稿依頼の封筒にも手を触れられないという有様だったのだよ。いかにわたしが権威に弱いのかを自覚する。そして実力以上の文章を書いて「あっと言わせてやりたい」なんて欲望に駆られているんだからさ、でもかわいいもんだよ。
カウンセリングを予約しながら、当日になると起きられなくって、結局キャンセルしてしまうひとたちの気持ちがよくわかる。もうそのことばっかり考えているからこそ、足が向かないのだ。私が原稿依頼の文章を読めないように。
ほんとにこの10日間ほどその原稿のことばかり考えて、こわくてこわくて、書けなかったのだ。
このところ、土筆の佃煮、ふきのとうの味噌和え、新たけのこの煮付けなどを食べているせいか、体中が春野菜のあくで満ちている。そう、えぐーいんだよ!





