2004年12月15日
ふたたびぺ・ヨンジュン
週間文春がぺと書いたらおばさんからヨンさまと呼べと抗議が殺到したと書いていた。韓流ブームを苦々しく思っている新潮・文春あたりが、この狂想曲をとちくるったおばさんの愚行と矮小化したいのはよくわかる。しかし、だ。負け犬もセカ中も、このところのベストセラーを底上げしているのは女性であることはまちがいない。せいぜい男たちは2チャンネルで「あれはみんな在日の女たちだ」などとほざくしか能がないんだから。
もっと底流を見るべきではないか、と思うのですねえ。
先日の来日の写真をときどき眺めるのだけど(ひそかな楽しみ)、小沢遼子おばさまもしゃべっていたように、ほんとにあごの線がきれいなんだよね。わたしたち日本人と血脈が遠い昔から通じている韓国、豊臣秀吉以来大陸へのあくなき征服欲の対象であった韓国、そして第二次世界大戦の終結まで植民地化の対象であった韓国、さらに朝鮮戦争の特需で敗戦後不死鳥のようによみがえった日本経済、在日のひとびとへの微細な差別(映画「GO]を観るまでもなく)をすべて水に流して韓流ブームが到来したなどと、だれが信じるだろう。
「戦場のピアニスト」(ポランスキー監督)に対して、ナチス肯定への反発を予想した人々が多かったことを考えても、ヨン様ブームが非歴史的な現象とはかんがえられない。
岩井志麻子が韓国とベトナムに恋人を持つこと、フランスの女流作家がベトナム人の若い男を愛人とすること(「ラマン」を読んでみて)、とヨン様ブームは同根だ。歴史的優位性と経済的優位性に裏付けられた日本の女性がフーコーのいう「状況の定義権」(=権力)をぞんぶんに発揮できるのが韓国の男性なのだ。おまけにヨン様の風貌は誰から見ても両性具有的だし。
ベルバラを見るまでもなく、宝塚を見るまでもなく、日本の女性は支配されることに怯え屈辱を感じてきた。誰が踏みつけられあしざまにされることを好むだろうか。だからこそ美しく、痛々しく、やさしい、「わたし」を命賭けて守ってくれる存在を渇望しつづけてきたのだ。
日本の女を韓国の男性は権力で圧することはないだろう。それは歴史が証明している。だって日本のほうが韓国より「上」なのだから。そう、宝塚の男役がわたしたちをレイプしないように。ユジンと同じ宿に泊まっても、決して犯すことなどしないミニョン。そこにおばさんは涙する。望まないことはしない男、愛でる主体が自分である客体としての男、一方的な幻想を投げかけることを許容する男(だってハングルしか話せないヨン様にことばは通じない)。
愛でられ、ハラスメントの対象とされ、犯される恐怖におののき、美醜を査定される客体だった女、そんな50年余を生きてきた女性たちが、はじめて愛でる主体となり、思う存分欲望を投影することができたのだ。それは形こそ違え、虐待されてきた子どもが長じて虐待する親となることと、どこか似ている。
アジア買春ツアーでソウルの夜を楽しんだおやじたち。その妻である中高年の女性たちは若き美しき韓国スターを愛でいつくしみ,嬌声を発し、ホテルを取り囲み、隣で眠る夫をながめながらヨン様の体を夢想する。
これを植民地支配者である男の妻に内面化された変形された権力欲の発露ととらえるのは、あまりに牽強付会だろうか。ことばの通じないペットにこそ、ひとは思いっきり自分本位の欲望を投影できるのだから。
でもいいの、ヨン様のあご、目、声、少しふとい小指、受け口の唇、めがねというフィルターで遮蔽された男のまなざし、ぷっくりとしたほほ、すべて私は愛でる。昔はベッカムだったが、今はヨン様だよん。





