2005年10月17日

責任をとる、謝罪をするということ

虐待もDVも家族内の暴力であり、親から子へ、夫から妻への権力構造が背景になっていること、これがわたしの援助の前提になっている。
ところがご存知のように虐待する親は『ケア』の対象だといわれる。厚生労働省が来年度から億単位の予算化によって虐待親のケアに乗り出したのはその象徴だ。そこから見てとれることは育児態度を学習することもできず、孤立した育児環境の中で苦しんでいる母親支援こそが必要だという視点だ。もちろん子育て支援が虐待防止に必要な活動であり政策化されたことは評価しなければならないが。
でも昨今では父親の虐待、その多くは死に至っていることをどうとらえるか。またいっぽうで家族再統合という、いったん分離保護された子どもをふたたび家庭に戻すための条件をどう整えるか、は今後の課題だ。
虐待もDVも暴力であるとすれば被害者と加害者がそこには存在する。虐待する親はその後も養育をになっていかなければならず(つまり親権剥奪はきわめて困難だから)、責任性を追及するよりもよりよい養育者として育てることが実利的に求められているのかもしれない。したがって『ケア』と言う言葉を使用するのは、きわめて戦略的な判断であるともいえる。
しかし別の見方も可能だ。虐待は圧倒的に女性優位の加害者構成であることから、裏返しの女性蔑視として「本来持っている母性本能を発揮できなかったかわいそうな女性たち」をケアして「お母さんらしさ」を取り戻させてあげよう、という政策とも考えられる。
そこには虐待した責任、子どもへの謝罪といったものは見当たらない。責任追及するに足りない主体としての母が前提とされているとしたら・・・。
いっぽうDV加害者には被害者にぬぐいがたい被害を与えたことの責任と謝罪が求められる。北米等の加害者プログラムにおいてそれは必須だ。わたしたちが実施しているプログラムにおいても加害の責任は重要な柱だ。果たしてでは責任をとるとはいかなることか。
加害者・被害者に関する論議はさまざまな領域において行われるようになっている。たとえば大阪大の藤岡淳子さんの「非行少年の加害と被害」「加害者と被害者の対話による回復を求めて」(ともに誠信書房)、ジャーナリストの森達也さんのエッセーの多くは加害者極悪人化による正義の味方化に与する風潮への反発だし。先日も読んだ「日本とドイツ二つの戦後思想」仲正昌樹著(光文社新書)などは謝罪についてヤスパースの4つの位相における責任を引用していて興味深い。後半は未消化なんだけど、加害者と被害者についての論議がわかりやすく書かれている。年表もあってサービス満点。
政策化されることは当然必要だが(DVは犯罪です!と)、政策化されたことでマニュアル化されてそこからこぼれおちるものも出てくるだろう。DSMⅢの革命的意味(アラン・ヤング)の悪しき影響だ。江口重幸さんの書かれているように、診断のグローバリゼーションは精神疾患を内在するものから外在するものへ(つまり貼りついた障害)と転換させた。貼りついたものを取り去る(症状除去)には薬が有効だ。脳科学の重視、EBMの覇権化(そりゃ、薬はもっともエビデンスが証明しやすいだろう)によって、歴史的に例がないほどアメリカの精神医学は製薬会社の市場原理と密着するようになっていることをよく見極めなければならない。
話はそれたが、結局犯罪化(司法)と病理化(医療)によって家族の暴力は回収がはかられているということだ(先進国)。そこまでも到達していないわが国において、諸々のアプローチが混在していることはなんだか遅れているのかパターン化されていないよさがあるのか。
どうもマニュアルが嫌いなわたしとしては、これからもエスノグラフィーと社会学の知見を駆使した学びを続けていきたいと思う。
そこで再び責任とは、謝罪とは何か、という地点に回帰する。
むむ・・・、台風の影響で秋の深まりが足踏みしている。おかげで紅葉が遅れ、黄変や紅色がどことなく不純で濁っているようだ。
あのキーンとした冷気が待ち遠しいなあ。

投稿者 sayoko: 01:18