2005年07月07日

微熱にまかせて

どうしたものか、遅々として体調は上向かず、相変わらずごほごほと咳き込んでいる。薬のせいか声だけは何とか出るようになった。
なんだか梅雨空のようにどよーんとした体感は、あらゆる躁的意欲を削ぎ、どうでもいいじゃーんという気にさせる。正岡子規が病床にあって最後まで創作を続けたという話が信じられなくなる。だるさ(岐阜弁では「だりーがね」というのだ)は、ものを書く気力をまず奪う。
だって食欲はぜんぜん落ちないし、体をひきずっても原宿界隈のセールには行きたいんだもんね。
締め切りを過ぎた原稿の数々を思うほどに、なぜかどよーんとして眠くなるのである。でも横になっても睡魔は襲わず、したがって手当たりしだいに本を読むことになる。
「新潮」を読んだ。三島由紀夫賞の受賞作、鹿島田由希「6000度の愛」にひきずりこまれる。芥川賞のように一挙掲載じゃないことに気づかされる。よく読んだら「冒頭」と注釈されていた。
残りは新潮社からの出版物を読んでくれということらしい。
評者にもあったがあまりに構造が透けてみえるのだが、意図は近来の作品には少ないものだ。マルグリット・デュラスの「広島・わが愛」「愛人(ラマン)」を想起させる作風だ。
四方田犬彦の「『ヨン様』とはなにか」も読了。ふーむ、なるほど、さすが韓国文化の研究者だけあって、学ぶべき点が示唆されていた。
冬のソナタはユン・ソクホ監督としては例外的作品で本国では評判がそれほど高くなかったらしい。意図的に韓国的なものをそぎ落とし(そうだよね)、無国籍風に仕立てた設定(人工的)が受けなかったということらしいのだ。
彼の分析によれば冬ソナは「愛とは何か」という永遠のテーマを追求した作品だからこそ日本の女性たちにも受け、普遍的価値を取得したのだと。
「美しき日々」と比較をすれば、恨(はん)という感情表出の希薄さが冬ソナの特徴であり、公開の順序が逆だったらこのような韓流ブームは起こらなかっただろうと。
わたしとしてはカン・ミヒ(ミニョンの母)の恨こそがあのドラマの土台にあると思うのだが。ただおもしろかったのが、私も『論座』執筆前に行った作業、主人公たちの親世代の高校在学中の年代と当時の韓国の政治情勢を対比する年表を四方田氏もつくっていたことだ。
脱政治化、意図的な政治色の脱色を証明するためにである。
参考になったのは、韓国の輸出ドラマのなかで実は一番人気なのは反日ドラマだということだ。現在でも数々の反日ドラマが韓国や他の東アジアの国では放映されているらしい。NHKをはじめとする民放各社も、あえてそのようなドラマを避けて輸入しているということを知った。
なるほどそうか、その一面的ドラマだけを見て、美しい韓流スターを愛であこがれているのが日本の女性たちというわけか。
韓・中の反日の潮流と韓流スターの日本のテレビCMの席巻が同時的に起こっていること。資本の論理ということばを使えば、金になるものはなんでも使うし、金になれば日本のCMでも出るということだ。イビョンホンの写真集を出版した扶桑社が『新しい歴史教科書』を出版している会社だということがわかり、韓国では大きな問題になった。そのときも私が愛読する女性自身では「負けないでビョン様!」という見出しで応援していたっけ。でもいったい何を応援してるのだろう・・。
「白夜」(イビョンホン主演、1998年のテレビドラマ)は壮大な規模のドラマだ。北朝鮮、崩壊前のソ連、中東の架空の国の解放戦線、などが登場するまさに政治ドラマそのもの。これも微熱のなかでDVDで見てしまった。
新潮にもどるが、中島一夫の評論「『グランドフィナーレ』を少女愛抜きで」は面白かった。わたしも芥川賞受賞作ということで、少し立ち読みしたが「えーっ、奈良の事件のあとでこれはありかい」と思うほどにペドフィリアそのものの作品であった。
その後の性犯罪に対する厳しい社会の論調の高まりのなかで、いかに文芸評論家たちが少女愛を抜きに作者の阿部和重を評価しているかの検証をした短評である。タブーへの挑戦なのだと感じさせられ、文芸評論もなんじゃ風見鶏かい、といった感想をもった。それにしても勇気ある評論だ。
いや、評論の骨子はそんな浅いものではない。ロリコンを批判できるのはいまやフェミニズムではなく、まっとうな男=マッチョイズムというジレンマを指摘している。このあたりは性犯罪の厳罰化とジェンダーフリーバッシングの同時進行と重ねてとらえられるだろう。
そしてロリコン(少女崇拝)=天皇崇拝という図式をあえて防御しようとした作者の意図を反革命的と指摘し、その意図を読み取らずして『グランドフィナーレ』を評価できない。つまりロリコンをこの作品の柱であると認知しなければ、三島たちの天皇への恋にも似た憧憬との区別、つまりこの作品のもつ政治性も読み取ることが不可能になるだろう。
といったことを中島一夫は述べていた。
昨年の奈良の事件以来、マスコミの性犯罪者に対する憎悪にも似たファナティックな論調に危惧を覚えるのだ。性犯罪処遇プログラム研究委員会は毎回5分間プレス公開がある。そのことだけをとっても異様なほどだ。
たしかに性犯罪は許せないものだが、女性たちではなく当の男性たちから性犯罪者が『人間以下』と厳しく断罪される世の中をどうとらえればいいのだろう。彼らは家に帰れば平気で妻を殴っているDV男性であるにもかかわらず、である。
そのあたりの理解に上の評論は少しだけ役に立った。なにしろ男性じゃないもんで、少女愛なんてわからんし、突然DVではなく、一足飛びに性犯罪者を糾弾しだすその論理がほんとにようわからんのですわ。

投稿者 sayoko: 01:27